2017年6月4日日曜日

艦これ 隼鷹 酒を飲むだけじゃない




艦これより、酒飲みの隼鷹さんです。

艦これでは飛鷹型の2番艦になっていますが、実際には飛鷹より8か月前に起工していて、海軍の公式資料でも隼鷹型1番艦になっています。

元々は空母ではなく、日本郵船の橿原丸級貨客船でした。(橿原丸)

起工は、1939年(昭和14年)3月20日に三菱重工業長崎造船所で。
この時、隣のドックでは戦艦武蔵が建造中でした。

武蔵のドックは機密保護のために周りからは見えないようになっていましたが、1940年11月1日に武蔵が進水しても、まで見えないようになっていたため、「もう一隻戦艦がいるのでは?」と噂になったそうな。
隼鷹さんその頃は客船ですよ!がっかりしたかな?

建造中の1941年2月に日本海軍に買収されて、同年6月26日に進水しました。

さて、酒飲みで有名な(?)隼鷹さんですが、このキャラクターの由来は、艦長が酒飲みであったからのようです。
その艦長は長井満少将です。1943年2月から12月の期間、隼鷹の艦長でした。

気さくな性格で、艦務会議では階級や年齢にこだわらずにみんなからの発言を聞き、その意見をまとめて即断するという、理想のリーダーでした。
世の中の上司はこれを見習うように!


艦これでは本人は装甲が薄いと言っていますがね、正規空母のお姉さん方と同じくらいおっぱい装甲は厚いですよ!

小破:だーから装甲薄いんだって!マジで!
中破:うわ~ん!こんな格好いやだ~!



元が客船だったので、装甲が薄いというのは事実でした。
艦首に内火艇(人や荷物の運搬など雑務で使用されるもの)がぶつかったら、隼鷹の方がへこんでしまったという話もあります。
これで良く、戦おうと思いましたね。

しかし、実戦では打たれ強さを見せました。

マリアナ沖海戦では、爆弾2発命中、至近弾6発。
佐世保沖で魚雷2本を食らって艦首が吹き飛び機関は損傷し、浸水5000tという状態になっても耐え抜いて、終戦を迎えています。
戦艦金剛は魚雷2本で沈没していますから、運もありましたね。

もちろん工夫もされていました。
当時の内務長 桜庭久右衛門少佐の指揮で、マリアナ出撃では可燃物は徹底的に除去することでダメージをコントロールしていました。

これにより、燃えることはありませんでしたが、元客船の紙装甲だったため、「至近弾の破片が外舷を貫通、飛行甲板を下から突き破る」ということがあったそうな。

飛鷹より先に生まれたため、日本で最初に傾斜煙突を装備されています。



これは排煙や乱気流が、着艦する飛行機の邪魔にならないようにするためのものです。
ただこれ、隼鷹さんには大きすぎて何も積んでいないと傾いてしまったそうな。

この傾斜煙突は、当時建造中であった大鳳の事前実験として設置されたもので、後には信濃にも採用されています。

竣工から1か月ほどで龍驤と第四航空戦隊を編制してアリューシャン方面に出撃していて、ダッチハーバーを空襲するという強行軍で初陣を迎えています(MI作戦と同時に実施されたAL作戦のため)。
パイロットの多くは加賀からやってきた熟練者だったみたいですよ。

南太平洋海戦後には、被弾損傷した翔鶴と瑞鳳、機関故障の飛鷹に加えて、瑞鶴も航空隊再建のため内地へ下がったことで、隼鷹は連合艦隊唯一の稼働空母として第三次ソロモン海戦などでは支援部隊として参加しています。

艦これでは、終戦まで生き延びたためか運が高いです。
ですが終戦後、機関が治らなかったため復員船にはなれず、また、客船に戻すには改造を施しすぎていたので、そのまま解体されてしまっています。

この解体作業は詳細に写真として記録に残されており、日本の空母の構造を知るための資料となっています。
隼鷹さんの体を隅々まで見ることができるんですよ!?

ちなみに、アメリカのフォーダム大学には隼鷹の鐘が現存するそうです。

元々は豪華客船として、サンフランシスコ航路を行くお嬢様になるはずだったのですが、戦争によってひゃっはーとか言っちゃうおてんばになってしまいましたね。
おしとやかな姿も見てみたかったですよ。






2014年8月にはグリコのCRATZのパッケージに隼鷹さんが採用されています。
お酒におつまみを持って、幸せそうでなにより。





2017年5月28日日曜日

艦これ 陸奥 むっちゃんが可愛い



艦これキャラクターの中でナンバー1美人かつ、ナンバー1可愛いキャラクターとして人々(主に私)から愛されているキャラクターです。

陸奥記念館という陸奥関連の展示品が置いてあるところがあるんですが、ここに行ってからすっかりファンです。
陸奥記念館にはこんな砲台もあり、近くでじっくり見ることができます。
場所は山口県周防大島町で、アクセスはかなり悪いですが、、

名前の由来は、青森県などを含む旧国名からですね。
青森とは反対の本州の端である山口県の旧名「長門」は戦艦 長門の由来になっています。


進水は1920年5月31日に横須賀海軍工廠にて。

一般国民の知名度・人気は長門よりも陸奥の方が上だったみたいです。
これは陸奥の進水式に皇后陛下がご臨席されたことが教科書に載ったためですね。

呉海軍工廠生まれの長門に対して、横須賀海軍工廠生まれの陸奥の方が東京に近かったこともあり、来賓数に恵まれたということです。
その数なんど十数万人ということ!

さて、陸奥といえば謎の爆発事故で沈没してしまったということをご存知の方は多いはず。
1943年6月8日に呉に近い柱島泊地での出来事です。
主砲三番砲塔付近から突然大爆発を起こし、沈没してしまった事故ですが、

スパイによるもの、乗員同士のいざこざからの放火、弾薬の自然発火、いろいろ説はありますね・・・
また、駆逐艦 潮が誤投下した爆雷によることも疑われたようですが、これは調査により否定された説になっています。
この事件があって、艦これでの陸奥の自己紹介は、こんな感じになっています。

長門型戦艦の2番艦として生まれた陸奥よ。
もちろん、世界のビッグ7の一艦になるわね。
え?主砲火薬庫爆発事故?
まあ、隠してもしょうがないわね。今度は大丈夫よ!


国民に親しまれ、期待された陸奥が戦わずに事故で沈没したなんてことは、公表できるはずがなく、陸奥沈没の件は隠されていました。
死亡した乗員の家族には生存を装って給料送金を続けるなどの、処置がされていたようです。

ちなみに、沈没した船体を引き揚げて修復した後に、再度戦力に加えるという計画もありましたが、破損が大きく、これは叶わなかったようです。

ただ、戦後にはちゃんと引き揚げられています。
大体、船体の7割ほどが回収されていて、陸奥記念館やその他、全国各地で主砲や副砲、スクリューが展示されています。
広島県の大和ミュージアムの外に主砲が展示されているのは確認しましたよ!

また、陸奥から回収された鋼材は戦前に生産されたため、放射性物質の混入が少なく、ずっと海底にあったことから、核実験の影響も小さかったので、現在では放射線測定用のシールド材として利用されています。
この材料は「陸奥鉄」と呼ばれているとか。

すごいぞ、むっちゃん!